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十勝国(とかちのくに) 44
 近世蝦夷人物誌
 

 北海道の名付け親でもある松浦武四郎が残した著作の中に
「近世蝦夷人物誌」というのがある。
この著書は安政4年(1857)にすでに、箱館奉行所に提出されていたが、
新政府になってからも公開されることはなかった。
 武四郎が亡くなったのは明治21年71歳であるが、ようやく出版された
のは明治45年(大正元年)のことである。


この近世蝦夷人物誌というのは、99人の老若男女アイヌの姿が書かれている。
アイヌに対する偏見(野蛮・乱暴など)が強くあった中で、優れた能力を持ち人徳もあり、
幕府や藩の方針に服している者も多くいる。
過労と環境の変化、天然痘や梅毒などの伝染病で体を痛めた者、一家の働き手を
つれさられて老人・子供・不具者だけが貧しいその日暮らしをしいられている者、
年頃の男女がいなくなって人口や世帯の少なくなってしまった村。
アイヌの悲惨な生活と深刻なコタンの様子がきめ細かく紹介されていた。


松浦武四郎は、これらを踏まえて日本人は蝦夷地開拓に
挑まなければならないと進言していた。
ところが、東京待機で北海道の命令はおりず、とうとう判官
を辞職してしまう。
 
(写真は、アイヌ民族から和人への交易品である鹿皮)

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十勝国(とかちのくに) 43
 アイヌ民族
 

 北海道の開拓で、日本人が忘れてはならないことがある。
蝦夷地はすでにアイヌ民族が住んでいた大地であったことだ。
樺太を含めて1万1000人のアイヌ人口が確認されている。
 

 明治16年晩成社の依田勉三たちが入植したころには、十勝国には
1000人を越えるアイヌ人がいた。特に広尾に多かった。
帯広にも10戸ほど住人がおり、アイヌの人達との協力を求めて会食を
おこなっているほどである。
 明治維新に入り、ロシアとの駆け引きもあり北海道の開拓は一挙に
進められた。アイヌ民族はそれまでの生活が一変していく。
彼らの生活の糧であった山や川・海は和人の進出で取り上げられていった。
最も困ったことは、鮭を取ることを禁止されたことである。
鮭は冬場の食料として保存食であったからだ。
開拓はお雇い外国人の力添えもあり大きく前進したが、その代償はあまりにも大きかった。
 

(写真は、和人との交易品だったアイヌの昆布)


 
十勝国(とかちのくに) 42
 主役がいなくなった明治維新

  北海道の開拓は、明治維新後の日本再生の縮図といえる。
考えてみれば、明治維新に導いた主役は、その後の改革には皆亡くなっていた。
長州藩の吉田松陰・松下村塾の優等生高杉晋作、薩摩藩の西郷隆盛、土佐藩
の坂本龍馬。
維新後の日本国の骨格を作ったのは、当時海外視察をしていた者や脇役で動い
ていた人物が中央の政治に躍り出たのである。
 初代総理大臣の伊藤博文ですら松下村塾では末席の人物であった。
何のための維新改革であるのか、100年先までのビジョンを語る者がいなかった


 お雇い外国人に助けを求めることは悪くはないが判断をするのは日本人である。
ケプロンの報酬は、当時の総理大臣よりも高いものであった。
また、函館までの札幌本道にかかる費用は開拓使10年計画の1/10の投資である。
十勝国開祖である晩成社の依田勉三が、道一本の嘆願書を何度も出しがナシの
つぶてとは大違いである。
 また、官立学校教育の道徳に宗教を持ち込んでしまったことで、鎌倉時代から
培ってきた日本人の思想が簡単に中に浮いてしまった。
欧米かぶれと言われてもしかたがない。これは終戦後も同じことが起きた。
 明治維新以後日本人の思想に大きく根付いてきた悪しき傾向であろう。

 
(写真は、徳川家康の黒印状)


 
十勝国(とかちのくに) 41
 ホーレス・スミス・クラーク
 
 
 日本にやってきたホーレス・スミス・クラークの最初の仕事は、札幌農学校の
学生として応募した若者(東京英語学校及び開成学校より応募)をテストすることだった。

 札幌学校 (札幌農学校の前身) から進級を認められた13人と、応募で合格した11 人
の学生と、クラーク・黒田清隆らは品川を出航し小樽へ向かった。
学生とはいっても、この時代は元武士の崩れたものもおり昼間から酒を飲んで騒ぐものもいた。
船の中で、同船した女性を巡って黒田を怒らせてしまう


黒田は、札幌につくる農学校では、特に道徳教育にも力を入れて指導していきたいと
考えていた。
この話にクラークは「道徳教育は聖書を使わなければ絶対にできない」と力説するが、
黒田は「キリスト教は300年に渡って禁止されていた宗教だ。
まして官立の学校が聖書を使うなんてできない相談だ。」と対立をした。

 
 しかし、クラークは札幌農学校の最初の授業のとき、英語の聖書に一人一人の学生
の名前を書いて渡した。そうして「ビー・ジェントルマン(紳士であれ!)」と要求した。
学生たちに精神の支えとしてのキリスト教の信仰を説いた。
クラークの強い信念に黒田は、聖書を使った道徳教育を黙認した。

ここで流れが変わってしまった。

 (写真は、明治8年の樺太・千島交換条約。黒田清隆が強く北海道開拓を進めることとなった)


 

十勝国(とかちのくに) 40
 官営工場
 
 
ケプロンは東京に滞在していたので北海道訪問は3回だけだった。
しかし、彼の人脈で揃えた各分野の技術者たちの意見をまとめ提案をした。
そのおかげで、中々進まなかった開拓事業は進み始めた。
 大きな事業となったものは3つある。
これらに、お雇い外国人の技術指導が全面的に関わることとなった


第一の事業は、札幌と函館をつなぐ道路の建設である。
日本で外国式に作られた最初の車道であった。これが札幌本道である。
北海道の中心を札幌と決めたので、最大の町である函館との連携を重視した。
開拓使予算の1/10にあたる100万円の投資であった。


第二の事業は、官営工場を作ることだ。
移住した人達に安く生活物資や生産資材を供給することである。
また、加工品を生産して販路をつくることだった。
全道に40ヶ所以上の官営工場を建設した。

 
第三に農学校の開設である。
明治5年4月に、開拓使仮学校を東京に開いた。
鉱物・地質・機械・化学・動植物などの学問を官費生50人、私費生50人の生徒
だった。これが、明治8年7月の札幌農学校として発展していく

(写真は、全道に作られた官営工場の地図である)


 
十勝国(とかちのくに) 39
 二人のお雇い外国人


  ホーマス・ケプロン(67歳)
開拓使の御雇教師頭取兼開拓顧問として日本に来たのは明治4年7月であった。
帰国が明治7年5月なので、4年ほどの滞在である。  

 ホーレス・スミス・クラーク(50歳)
明治9年7月に札幌農学校教頭に赴任する。
8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の5月に島松の駅逓で「Boys, be ambitious」と別れ
の言葉を残し、自分を誘った新島譲(同志社設立)に会って帰国した。

 短い滞在であったが、この二人の影響で北海道開拓は決定的となった。
 
(写真は、札幌の観光名所でもある羊ケ丘展望台のクラーク像)


 
十勝国(とかちのくに) 38
 道ができて町ができる 

 北海道の歴史は本来、応仁の乱くらいまで遡らなければならない。
しかし、開拓が始まったのは明治維新後なので歴史は浅いといわれる。
更に、開拓が始まって10年ほどで基本方針ができてしまった。
開拓使の時代は明治15年で終了だった。 
その基礎を作ったのは3人で、黒田清隆・ケプロン・クラークである。

 
 開拓使長官の黒田清隆は北海道開拓にあたり樺太の視察を行っている。
未開地の開拓には、すでに開拓の経験をした国の人たちに支援をしてもら
うことが最善であると考えた。
ロシアの脅威も開拓を急がせた。
その結果、気候も似ているアメリカに出向きアメリカ合衆国政府の農務局
長であるケプロンに白羽の矢を立てた。日本でいえば農林水産大臣である。
局長の職を辞めさせて連れてくるのであるから破格の報酬であった。
それにしても、黒田清隆は一流のヘッドハンターである。

 
 北海道がカリフォルニアに似ていると言われる人が多いのは当然である。
西海岸の開拓シナリオが生かされているのである。
アメリカ西海岸は、まずは道ありきから始まる。
砂漠地帯に道(フリーウェイ)を作り、道の出入り口に大きなショツピングセ
ンターを建設し、その周りに住宅が建てられ、町ができていくのである。 
町は道から始まるのであって、町と町をつなぐのが道ではない。


(写真は、黒田清隆像に刻まれた言葉・札幌大道公園にケプロンと並んである)


 
十勝国(とかちのくに) 37
 関寛斎
 

 千葉の東金生まれ、順天堂大前身である佐倉順天堂で
医学を学び徳島で藩医となり、戊辰戦争で名医といわれた
関寛斎である。
余生の安逸を捨て、それまでの全ての財産を十勝の辺境地
に注ぎ込んだ。
 

 北海道開拓にあたっては10年間の周到なる準備をしていた。
四男の又一を札幌農学校(現北海道大学)に入学させる。
更に石狩に農場を開かせ、陸別斗満原野にも先発して入地さ
せていた。
 しかし、この又一と牧場経営を巡って確執がうまれた。
寛斎は、豊頃の二宮尊親のところに何度も訪ねている。
農場を解放して自作農100戸を育てあげたいという寛斎。
農学校仕込みの又一は、アメリカ式大農場をという。
理想主義と現実主義の衝突である。

 
又一と共に10年間斗満で開拓に人生を捧げ82歳で服毒し、
自らの生涯を閉じた。
最後まで、自由人たらんとした者の一流の結末の付け方だった。
寛斎自殺後、9年で又一は行き詰まり、陸別を去ることとなった。


(写真は、陸別関寛斎記念館に保存されている司馬遼太郎の色紙)



 

十勝国(とかちのくに) 36

 明治35年(関寛斎) 
 関寛斎は、十勝国本別村斗満 (現十勝管内陸別町斗満)に
関農場として入植し陸別町開拓の祖となった。72歳の時だった。

  寛斎が入植した明治35年とは、どのような時代であったのか?
 
明治16年に依田勉三が鍬を入れた下帯広村が、監獄の囚人によって
開削され十勝で最初の町となった年である。
明治30年に豊頃に入植した興復社(二宮尊親)は160戸となり、報徳思想
が実を結ぶ年である。
鉄道では小樽から函館までの函館本線の工事が着工され三年後に開通
する。
国では日露戦争に突入する前で、青森の八甲田山で悲惨な雪中訓練が
あった年であった。

 

(写真は、城山三郎が陸別を訪れた時のもの)
 
  星ありて住あり 夢ありて生あり   城山三郎


 
十勝国(とかちのくに) 35
 陸別町 
 
 陸別町とは十勝国と北見国の国境にある町である。
昨年末(2012年)、ユニクロが町民全員約3,000名分の
ヒートテックを贈ったことで話題になった。
ようするに、日本一寒い町である。

 
 明治35年、この厳寒地に開拓の鍬が入れられた。
「関大明神」と慕われた関寛斎72歳であった。
寛斎については、徳富蘆花を始め、司馬遼太郎、 城山三郎など
多くの作家が書いているので詳細は省くが、何故服毒自殺に至っ
たのかを考えてみたい。
 今日の北海道にいたる、分岐点と思もえる。


(写真は、関寛斎が住んでいた斗満駅逓)


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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上家二三夫
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