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十勝国(とかちのくに) 34
 ケプロン報文の7条 

 開拓使最高顧問のケプロンが「お雇い外国人」に基礎調査を実施し、
それに基づいた産業政策がまとめられた。それが「ケプロン報文」である。
 

 明治4年11月に提出された初期報文の骨子は次の通り。

1. 北海道の気候や土壌は農業に適しており、また、開発できる資源も豊かにある。
2. 北海道の主都として札幌を考え、札幌から室蘭や石狩までの交通路をつくる。
3. 札幌に工場を設け、機械の力を利用する。
4. 開拓にあたり、地形や地質の測量をおこなう。
5. 北海道に合った農業や生活を、日本の農民がつくりあげることは簡単なことでは
  ないので、欧米の農民を移住させ、それを見習わせる。
 6. くだものの栽培に適した土地なので、各国から苗木を取り寄せ、植えてみる。
 7. 北海道と東京の官園に、付属の農学校を設ける。

 
現在の北海道各地を回ってみると、この時に実施されたものが多いのに驚く。
依田勉三が偶然読んだ「ケプロン報文」に対する先見の明は正しかったといえるだ
ろう。

(写真は、ケプロンと相対して立つ黒田清隆の像)
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十勝国(とかちのくに) 33
 お雇い外国人 

 十勝国、陸別に入植をした「関寛斎」について述べる前に
「お雇い外国人」についてふれておきたい。

新政府は新しい国づくりのために海外に人材を求めた。
この外国人のことを「お雇い外国人」といい、約20年間で 2690人
の雇用となった。 (何故、このようになったかは別の機会としたい)


 この中で北海道の開拓使は78名の外国人を招いた。
開拓使長官黒田清隆が三顧の礼で迎えたホーレス・ケプロンを
最高顧問とし、外国人技術者たちの代表責任者だった。
各分野に、彼の人脈で呼びよせ6割がアメリカ人となった。
その内、半分は民間の教師だった。

 
 開拓使の国別内訳は
アメリカ人48名、中国人13名、ロシア人5名、イギリス人4名、
ドイツ人4名、オランダ人3名、フランス人1名。


(写真は、札幌の大通公園にあるケプロン像に刻まれている記念の言葉)

 
十勝国(とかちのくに) 32
 ハルニレの木
 
 

 十勝の豊頃町には、ある「ハルニレの木」がある。
豊頃町は知らなくても、この「ハルニレの木」を見たことのある人は
多いのではないかと思う。
日立のコマーシャルで、一本の木に注目されたからである。
十勝川の河川敷に立つこの大木は、2本の木が一体化した珍しい
もので推定樹齢は140年という。



 明治30年に、豊頃に入植した「興復社」は、その後4年間で150戸
に達し、報徳思想に裏打ちされた農民の生産活動は他の開拓地域
に影響を与えることとなった。
また二宮尊親の偉大さは、多くの農場が小作制を試みている中で、
農民の独立を保証し、実現したことである。


 十勝国に最初に入植した晩成社とは雲泥の差がある。
報徳思想が生かされていれば、維新後開拓に入った武士軍団や
晩成社などの素人集団の苦労は軽減されたことだろう。


 明治35年に陸別の斗萬(トマム)に入植した関寛斎では、更にあき
らかになることが出てきた。

(写真は、豊頃町のシンボルでもあるハルニレの木)



 
十勝国(とかちのくに) 31
  日本人開拓のプロフェッショナル


 幕末に大友亀太郎が北海道開墾に派遣された。
二宮金次郎の代行である。
維新後、新政府がお雇い外国人を70数名北海道に注ぎ込んだが、
日本人のプロフェッショナルとして、最初に来道した人物だった。
 

 返す返す思うが、明治維新の新政府は東京での指揮だった。
蝦夷地は、元々アイヌ民族が先住民として生活をしていたところである。
現地で指揮をとらなければ、実情は把握できるものではなかった。

 新政府となり、大友亀太郎は大いに不満であったのであろう。
小田原に帰ってしまった。
 探検家、松浦武四郎も新政府に判官の命を受けるが蝦夷地へ命令が
下されず東京待機であった。辞令を突き返してしまう。
 また、「アッシ判官」と呼ばれた松本十郎は、黒田清隆が探し回るが
厚田のアイヌ部落から出てこなかった。


 屯田兵の宿舎が今も当時のまま残されている。
中を覗けばとても寒冷地では住める建物ではなかった。
それでも、依田勉三たちの拝み屋よりはましであるが。

以前、鹿児島の南端で築180年の民家で泊めてもらったことがある。
屯田兵宿舎の構造と似ており、よくよく住人に「何故この構造なのか」
と聞かせてもらったことがある。南方での住宅で納得したものである。

開拓使長官「黒田清隆」も、屯田兵司令官「永山武四郎」も薩摩藩であった。


(写真は、屯田兵の住宅の中)


 
十勝国(とかちのくに) 30
 報徳思想の継承
 
 

 二宮金次郎の報徳思想が北海道で継承された地区は3ヶ所ある。
幕末の道南地区と札幌地区。そうして、十勝国の豊頃町であった。
 

明治維新の10年前(1858)、江戸幕府の開拓政策に沿って現在の道南、
木古内町と七飯町に開墾で来道した人がいた。
小田原出身の幕臣「大友亀太郎」で、二宮尊徳の門下生である。
亀太郎は田畑の土地開発と、48戸の農家の入植を8年間かけて成し遂げた。



 この実積をもって、石狩国札幌郡(現在の札幌市東区)の開拓に入る。
当時の札幌は原生林そのままで、農民入植地として適切な土地を尊徳の教え
に従い測量を交えて探し、フシコサッポロ川(現・伏古川)の上流周辺地域を
「御手作場(おてさくば)」として定めた。 
 当時最新鋭の技術を駆使して整備が行われ、およそ4キロに渡る用排水路の
建設が含おこなわれた。これが、後に創成川の土台となる「大友堀」である。
現在のススキノ近くから水路を造り、伏古川まで通じる用排水路が設けられたこ
とで、街づくりの起点となった。
この一帯が「札幌元村」として定められ、札幌黄を生み出した玉葱耕作である。



(写真は、恵庭にある二宮金次郎銅像で、珍しい草履を差し出す金次郎である)

 
十勝国(とかちのくに) 29 
 二宮尊親 


 明治29年(1896)、二宮尊徳(金次郎)の孫である尊親が牛首別(豊頃)を訪れ
依田勉三と交友が始まる。明治16年以来孤立していた勉三にとっては、ようや
く気持ちが通じる人との出会いであったろう。

 

 二宮尊親(そんしん)は
報徳思想によって農村復興を指導した二宮尊徳の孫にあたる。
幕末に二宮尊徳(金次郎)は藩の立て直しに幕府の要請で指導にあたっていた。

 報徳思想とは、江戸時代末期の農政家二宮尊徳の考えを実践することであり
「以徳報徳」に由来する。

尊親の父親、尊行が相馬藩(福島県)に招かれ、相馬に移り荒廃した農村を救っ
た話はよく知られている。しかし、明治維新とともに藩は廃止となった。
尊親は相馬の農民19戸と「興復社」を結成し、
新天地を目指して豊頃村牛首別に移住したのである。明治30年のことだった。

報徳思想は実を結び、翌年14戸が合流し明治35年までに160戸が移住した。

豊頃町には、二宮という地名が今も残っている。


 
十勝国(とかちのくに) 28
 十勝分監創立 

 1895年(明治28)4月1日、
北海道集治監としては最後になる五番目の十勝分監が開庁した。

刑期12年以上の重罪犯を収容するので、入所は多いが出所する者は少ない。
十勝分監の所有地は、現在の帯広駅北部の十勝川から、柏林台団地・競馬場
・緑が丘・駅南・自衛隊・南町・自由が丘などすべて、南部一帯は囚人により
農耕地として開拓された。 
当時の一般住民は上川・河東・河西の三郡で約800人。
これに対して、十勝分監は囚人1200人、職員500人で倍の人数が一挙に帯広
に流入した。
 

 現在の大通(当時は監獄道路と呼ばれていた)が整備され、市街地誕生の基礎
となった。
更に、勉三が嘆願していた大津までの道も囚人によって開削された。


 以後、下帯広村は、明治35年(1902)に十勝で最初の町となり、
昭和8年には市制が施行された。
これらの土地は明治40年に鉄道が開通し、徐々に土地所管換えをして昭和51年
に全て市に明け渡されることとなった。

(写真は、十勝川河口付近)


 
十勝国(とかちのくに) 27 
 「開拓の始めは豚とひとつ鍋」


 晩成社が最初に鍬を入れた場所に「帯広発祥の地」の碑があり、
 「開拓の始めは豚とひとつ鍋」が刻まれている。
この句は明治17年、幹部の渡辺勝が「落ちぶれた極度か豚とひとつ鍋」
と詠んだ句に、勉三が「開拓の始めは豚とひとつ鍋」と返したものである。
 晩成社は実質的にはこの時に分解していた。


 翌年、 帯広の開拓に行き詰まった依田勉三は、当縁村(現大樹町)に
移り牧畜業を始めた。
1900haという土地の払い下げを受け、家畜を青森に買い付けに行き、
40頭を船で大津まで運んできた。これらの事業も国の補助は一切なかった。

 明治23年には、牛は130頭、馬40頭を飼育するまでになる。
牛の乳をしぼり、バターやチーズをつくり、牛肉の缶詰まで製造した。
しかし、晩成社には販売の見通しがなかった。
十勝はまだ陸の孤島である。
人口が増えている札幌までの道が開かれるのは明治40年である。


 明治27年、肉の販路を求めて函館に肉屋を開業したのである。
店員として採用したのが後の妻となるサヨである。ところが、牧場から
生体で輸送した家畜は、黄金道路―日高路―噴火湾沿いで函館に
ついたが、日数でやせ細っていた。
 勉三はサヨを伴い当縁村(現大樹町)に戻った。


 
(写真は、更別にある十勝スピードウェイ)


 
十勝国(とかちのくに) 26
 三県一局時代 

 晩成社の不運は明治15年に開拓使が廃止となり、
札幌県・函館県・根室県の三県一局と重なったこともある。
十勝国が札幌県の行政区画となった。
札幌と十勝は山脈の遥かかなたである。
更に、この三県も明治19年には廃止され道庁制度が設立される。
勉三の嘆願書は、紙くずでしかなかった。
 
 晩成社は政府が進める移民制度と異なるのは、全て自費であることだ。
これは、明治3年に北海道に渡った仙台藩と同じである(伊達・当別など)。

屯田兵は建物・生活の道具・食料は入地時支給される
(一棟200円で現在の伊藤組が請け負っていた)。
更に戸数は100~200単位で多数の仲間がいた。
道路は囚人よって開削されていると雲泥の差があった。


 勉三は、大津港まで道の開削を政府に何度も嘆願書を送るがナシのつぶて。
帯広と下界の連絡は大津まで出ていかなければ繋がらない。
手紙も米・味噌・塩などの食料を伊豆から送ってもらうが、引き取りに行くには
2~3ヶ月に一回のありさまだった。 
 輸送が絶たれており、蚊・ブヨ・アブに悩み、そうしてバッタの大群、衛生環境
の悪い中でマラリヤ病であった。 
 
(写真は糠平で、ミヤママタタビ・葉が白からピンク色に変わる)


 
十勝国(とかちのくに) 25 
 バッタの大群 

 明治16年、晩成社は現在の国道38号と南6丁目線が交差する
あたりに最初の鍬を入れて開拓は始まった。
しかし、早くも開拓の現状に驚き3戸4人が逃亡する。
10月には鈴木親長・カネ・弟の文三郎が入地した。
だが、逃亡して伊豆に戻った者の噂で第二弾の応募者はなかった。
更に、最悪なことにバッタの大群が襲い根こそぎ収穫を失った。

 明治16年8月4日の晩成社幹部の鈴木銃太郎の開拓日記に
次のように記されている。

「晴れ。
午前9時突然蝗虫南ウレガレップ地方より来り空中に飛揚す。
移民く石油の空缶銅盥等を鳴らし或いは炬火を焚き専ら防禦す。
然かも遂に蝗虫罹り穀菜皆無野に草色を見ざるに至れり。」  

 地中から掘り出したバッタの卵や成虫は積み上げられ、
土をかけて固められて塚状にされた。
この塚はバッタ塚と呼ばれた。
十勝の蝗虫は、明治12年から18年にかけて大発生した。
その群れは日高、胆振や札幌方面にまで飛来した。
16年から17年は渡島、釧路地方にも及んだ。

(写真は、足寄湖)


2008年8月7日。 日本の一番東にある根室から出発します!
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HN:
上家二三夫
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